ロブ・ディアー/チャンマツ2013

遥か昔
20世紀も末
いつ終わるともしれぬ戦いがあった。

飛来するツバメ軍団に虎が牙を剥けば、鯨が足元を狙う。
陸海空―
その三つ巴の戦いはあまりに激しく世界を真っ二つに分け隔て堕ちたほどであった。

92年―
阪神タイガース八木裕選手のホームランがその戦い(ペナントレース)に終止符を打ったかと想われた(あの時はガチで優勝するんじゃないかと思った)が、戦いは続き、神宮最終決戦でのその年のノーヒットノーラン選手、湯舟敏郎投手のリリーフ登板を打ち崩した東京ヤクルトスワローズが一抜け。

ローズを中心としたマシンガン打線により大洋ホエールズ改め横浜ベイスターズが二抜け。


こうして世界に敵なしとなったかに思えた阪神タイガースだったが、
千葉ロッテマリーンズという強敵と共に戦いは続いた。


そう阪神タイガース
セリーグでの孤独な戦いの中、フレーズだけを羅列しても余白に不自由するほどの様々な出来事・事件があった。

今日は日米を股にかけ凄まじい記録を打ちたてた一人の選手を綴っていきたい。

1993年―

阪神タイガースのイケメン助っ人選手、好打者ジム・パチョレック選手が退団。
急遽、阪神は新しい助っ人選手の選考作業に入ったのだが―

中心選手であるトーマス・オマリー内野手が一人の選手を猛烈プッシュしてきてしまったのだ。

  ――このマンモスヒロイ、コウシエンではパワーヒッターがフカケツや――

オマリー選手はただ単に飲み友達と一緒にプレーしたかっただけなのだが、
白い悪魔の深謀なる囁きに阪神球団はこの時点において気づく故(ゆえ)もなかったのだ。

こうして、
1994年―
大リーグ実動10年にして通算226本塁打という凄まじい実績を引っ提げた、
現役バリバリ大リーガーであるロブ・ディアー選手が阪神に入団してくれたのだ。

春季キャンプ―
打撃練習において並居る阪神投手陣を軒並み打ち崩す。
しかし、崩したのは阪神投手陣だけではなかったのだ―

春季キャンプ地である安芸の周辺住民の民家の屋根を、ディアー選手の打球が直撃。瓦は瞬時にして崩れ落ちたのだ。

推定飛距離160m級―

恐るべき快打に周辺住民の人々は怖れ慄いた―
周辺住民の人々に被害が広がることを恐れた阪神球団は、
打球が場外に飛ばないよう安芸市営球場の外野スタンドにネットを敷設したのだ。
その費用実に2000万!!!

人呼んで― ディアーネット

安芸市営球場高らかに靡く(たなびく)ディアーネット、
それを劈く(つんざく)ような打球を連発するロブ・ディアーの雄姿を目のあたりにしたパンチョ伊東氏をはじめ、どちらかといえば関西に馴染みのある野球関係者は挙って(こぞって)感嘆の言葉を並べた。
   ――甲子園でも場外ホームランが出る――
   ――50本は固い――
   ――本物が来た――
   ――バースの再来――
阪神ファンのピュアで大きな期待と共に1994年シーズンも開幕したのだ―

ロブ・ディアー】 
94年 NPB 阪神タイガース
70試合  打率.151 本塁打 08 打点 21  三振 76
右投右打 外野手・一塁手 背番号 57 
メジャー通産 226本塁打 推定年俸 2億7000万円

ディアー選手は開幕ダッシュに成功―
あっという間に三振数を二桁に乗せる。
大型扇風機の異名がスポーツ紙を急いで踊り回った。

1割を切ろうかという打率にも関わらず、
阪神中村勝弘監督は臍(ほぞ)を噛むどころかガムを噛みながら
ディアー選手を起用し続けたのだ。

ちょうどそのころ私は横浜球場に観戦に行った、ディアー選手の打撃練習時の打球のほとんどが外野スタンドにいた私の遥か頭上を駆け抜け、場外へ消えていく。球場アルバイトの「ボールが来ます。危険!」を知らせる笛の音が止むことは決してなかった。
横浜球場の場外へ消えていく打球など当時「ミラクジャイアン童夢君」に出てきたドード以外は知らない。
「これだけ見るとたしかにとんでもない奴である。」

そして試合はディアー選手の4三振で阪神の負けである。
ディアー選手はカットする、流し打ちなどの概念は持ち合わせていない。
来た球をフルスイングするしか考えていないように見えた。
最終打席などピッチャーが投げる前から振っているように見えた。

「とんでもない不良債権を掴まされた!!」
当時の阪神ファンの切実な思いであった。

季節も変わり扇風機の需要が増え始めた7月の終わり―

あのラルフ・ブライアント選手がもっていた三振率記録を軽く吹き飛ばしながら.三振率396まで上昇。
イチローですら成し遂げられていない夢の4割に迫ろうという矢先にディアー選手は故障離脱してしまったのだ。

右手親指靭帯断裂―

夢の三振率・4割越えは実現しなかったのだ。
失意の帰国― そして退団―


だが、ディアー選手の挑戦は続いた。


ロブ・ディアー】 
96年 MLB サンディエゴ・パドレス
25試合  打率.180 本塁打 04 打点 21
打数 50 三振 30 三振率.600

故障から回復したディアー選手は96年、サンディエゴ・パドレスで大リーグに復帰すると―

驚異的なペースで三振を量産。

規定打席には到達しなかったのが惜しまれるが―
打席数50、三振数30、三振率.600―
夢幻の如くなり―

本能がそうさせたのか―
本塁打か三振か―
己の打撃スタイルに原点復帰し、驚異の三振率を残し堂々の引退。

ロブ・ディアー】 
84年〜93年 96年 MLB 
1155試合  打率.220 本塁打 230 打点 600 三振 1409

大リーグ史上にも日本プロ野球史上にも残る、
  ――三振か本塁打か――

ディアー選手は潔い、まるで日本人が忘れてしまった大和魂をもった
侍のような打者だったのだ。

その後、
嘘か真かマイナーリーグの打撃コーチとなり、
選手の駄目だしをする際のディアーコーチの口癖は―

『俺のようなスイングはするな!』

だそうだ。

未だに回収するための費用が500万近くかかると言われそのままにされている安芸市営球場のディアーネットをキャンプの映像などでチラッとみると心が清々しい気持ちになることはいうまでもない。

まさに漢のなかの漢